連載 「熊物語」

 宮城県仙台市にお住いの、「長町南のベア」さんが掲示板に投稿して下さいました数々の面白いエピソードを愛知のご隠居の発案で、わたしのHP上にまとめて紹介することにします。ベアさんは、選手として高校・大学で大活躍され、指導者としてもミニバスでの日本一をはじめ、中学、高校、高専と多くの年齢層の選手を教えて実績も残してこられました。卓越した指導観だけではなく、能代工業、仙台高校などの裏の世界を覗き見ることもできます。投稿を受け次第、随時追加していきます。

タイトル

その1  「はじめまして」

その2「元能代工バスケット部監督の加藤廣志先生との出会い!」

その3「志村雄彦(仙台高校→慶応大学)君と全国大会準優勝」

その4「能代工に行って、両加藤先生に会うNO1

その5「仙台高バスケットボール部で2度気を失った3ポイントシューター」

その6「能代工に行って、両加藤先生に会うNO2」

その7「能代工業加藤廣志先生、仙台での旅館秘話」 

その8「クマさんの東方見聞録」 

その9「能代工元監督加藤廣志先生、長町南小に現れる!」

その10「能代工元監督加藤廣志先生、長町南小に現れる!」(後半)

その11「うちの校長、ミニバスの監督になるの巻き!」

その12「生涯最大のライバル!あの伝説的な桜丘小ミニバス監督・柴田豪NO.1」 

その13「うちの校長、ミニバスの監督になるの巻 その2」

その14「生涯最大のライバル桜丘小柴田豪先生NO.2」

その15「うちの校長、ミニバスの監督になるNO.3」

その16「うちの校長、ミニバスの監督になるNO.4」

その17「宮城県最大の指導者・佐藤昌士先生NO.1」

その18「’02能代カップのこと」

その19「ミニバス女子のシュートフォーム」

その20「ワンハンドシュートへのこだわりその2」

その21 「バスケットとは何?!」   2003/01/21() 23:27   

その22「ミニバスにおけるポジションの役割について」2003/04/28() 00:55

その23「アジア女子バスケット仙台編」2003/06/02() 00:21 

その24「アジア女子奇跡のオリンピック!」2004/2/10

熊物語その24「アジア女子奇跡のオリンピック!」

 「三日連続の延長戦」サーズ騒ぎで、今年の1月にずれましたが、それがよかったのか・・・?
1月18日(日)モッチン先生を迎え、地元のネットでは第一人者の中年ライダ−さんに懇親会の場所をさがしてもらい、10名で行った(モッチン先生・岩手県の佐藤先生・福島県のジャンボスズキさん・宮城県立町ミニの大内さん・今度全国ミニに女子出場する高森東ミニの坂井さん・ネットのユキパパ・鶴が丘中の花火さん・しらかし台中の白取先生・私長町南のベア・そして中年ライダーさん)。モッチン先生は、飛行機の欠航により新幹線で遅れて駆けつけたため、アジア女子の日本対韓国戦は、ホテルのテレビでの途中応援となった。
実は、今だから言えるが(日本がオリンピックに出られるようになったから)、2日間私の学校でチャイニーズタイペイがトレーニングをしました。うちの顧問は、「私の紹介じゃないところから来たが、負けてたら皆んなから何を云われるか冷や汗ものだった」ようです。私もチャッカリと色紙を書いてもらい、NO.5(歌手でもある)と握手をしてました。
1月17日(土)の日本対チャイニーズタイペイは延長になり、NO.5(最後の方、うるさい日本人の声にもかかわらずフリースロー1本決めて、両手を横に上げ観客に「どうだっ!」とアピールしてました)とNO.11の活躍で、歯車の合わない日本が負けました。
さて前日、日本が休みの1月16日(金)の韓国対中国戦は、来なかった人はもったいない位面白かった。観客の入りが悪く、急きょ近くの父母やバスケツトマンに召集がかかりました。このゲームを見た人はラッキーでした。最後の韓国の追い上げで延長になり、3Pも決まって韓国が勝ちました。とにかく世界最高峰のみごたいの有るハイレベルなバスケットの試合を見学できて良かったです。中国のNO.8のドライブ・ミドルショット、NO.15のポストプレー・足の運び、NO.10のチェックされても入るショット。韓国は、NO.12の(WNBA)プレーが光っていました。
1月19日(月)観客席から後ろを振り向いたら、2Fに能代工前監督の加藤廣志先生ご夫妻が応援に来てました(内海監督は能代工でシューターとして活躍、昨年活躍していた内海は息子・桜花高校のキャップテンは娘)。教え子の内海監督を応援に来ていたのだ。

 

熊物語その23「アジア女子バスケット仙台編」

 5月24日(土)の対アメリカ戦で、とりあえず解散したようですが、2試合共圧勝しました。先の5月14日の対オーストラリア戦(年齢は20歳前後でしたが、かなりうまく・背も高く・スピリットもありました。強敵でした)も見ましたが、アメリカ戦の方が日本の動きがよかったです(もっとも、ジャパンエナジー8人・シャンソンが2人・日本航空2人では・・)。相澤の方がチャンスメーカーとしていいのですが、これからのことも考えたのでしょう。若い大神が選ばれました。アメリカ戦は、楠田(旧川上)がいなくて、大神が大活躍してました。声をだしたり、体操のリードマンをしたり、荷物もったりと大忙しで、山形からきた親父やミニバスのコーチとはお話できたのかな?
しかし、紺野の3ポイントシュートには恐れ入りました。要所要所で的確に入ってました。
矢代もクセのある動き・ポストでかき回し、永田のスタンスの広さもやはり怪物でした。ちょうど、うちの高校が日本のベンチの座った後ろ姿を見てましたが、みんなの後姿はまるでパワー男でした。筋力は凄まじいです。濱口の正確なフックシュート、立川のナイスアシスト、矢野の華麗なプレー、大山キャツプテンの流れるようなフツトワークなどなど・・。また、アメリカのサービス精神には恐れ入りました。最後までファンにサインやおしゃべり・握手をしていました。WNBA候補たちとしては物足りなかったのですが最後、点数が離れてきて危ないファウルもありました。リンガー・ローガンの低くリズムのあるドリブル・パスなどのガードぶりは上手かったです。ジュディ・スポエルストラは監督と同じくらい試合中、立ってコーチしてました。将来名コーチになるでしょう。
ところで、サーズの影響で今回中止になりましたが、時期を見て仙台でやるようです。来年アテネオリンピックなので、1月か・3月か・4月か?気になる所です。

 

熊物語その22 「ミニバスにおけるポジションの役割について」

仙台でミニバスに携わって26年ぐらいになります。
私は、わかり易く G(ガード)GF(ガードフォワード)F(フォワード)
CF(センターフォワード)C(センター)と場所を教え、大体の役割を理解してもらってます。DFも同じです。
今日私立の高校春季大会の際、同僚の顧問から昨日能代工高の三彦先生と話していて、「バスケットはシンプルに攻めそして守る。要は1対1、2対2だ・・」。数年前も女子が能代カップに呼ばれての加藤廣志元監督の談話に「シンプルに攻める」とおっしゃってました。
話は変わりますが、今月号の月刊バ○ケットのふろくには、今までに言ってなかった非常に大切なこと(決して技術論ではない。約束事、やりつづけること、メンタル論だ)が書かれてありました。私は技術論よりもこっちの方が数段上、上手くなるヒントがたくさん隠れていると思うのです。そして、夕方私が宮城県で一番尊敬している佐藤昌士先生ともお会いし、また「空いたらミドルシュート打てばいいし、DFがしつこくなればカットインやポストに合わせる・・・」とおっしゃってました。「シンプル・イズ・ベスト」です。
昨日の私立宮城選抜ー昭和学院の女子の試合は、聖和が選抜に出ないのにもかかわらず2点差で勝ちました。182cm・178cm・176cm2人などほとんど170cm以上にもかかわらず(宮城は175cm一人、あとは160cm台)、しつこいDFとシュート力で勝ちました。男子の宮城選抜79ー101能代工高は、1Q学院高単独で21−20でしたが、2Q東北高単独で離されました。能代工高はガード・フォワード安定してましたがセンターがまだのように感じました。北向の3ポイントジャンプショット・高橋のシュートとリード・富田のパッサーに徹底している所・宮城の視野のあるリード。やってくれそうです。
しかし、元シャンソンの中川監督、桜花高の井上監督(萩の月を上手そうに食べていた)もそのようですが、三彦先生も朝の(?)2時まで、アルコールを一滴も飲まなかったようです。

熊物語その21 「バスケットとは何?!」

バスケットの王道とは何ぞや!正道とは?・・・・
60%以上バスケットをやって来なかった宮城のミニの指導者は、色々考え・試行錯誤して頑張ってます。何が正しいのだろう?どうやれば勝てるのだろう?そして、それらの斬新なアイデアを生み出して全国でも勝ってきました(実はこのような素人の指導者が本当におっかないのです)。
かつて10年前、能代工前監督の加藤廣志先生のところに行き勉強してきました。バスケットで勝つためにはどうすればいいのでしょうか?とお聞きした時、「33回全国優勝してきたけれど、これだ!言うものはない。自分で良かれと思ってやって、その結果勝てれば、それが正解なのだよ」と教えてくれました。つまり、自分で良かれと思ってやったプレーやあみ出したプレーで勝てれば、それが自分のバスケット哲学なのだということ。
得てして、バスケットをやってこられた方はシュートは試合では50%入ればいいとか、フォーメーションをきちんとやって決めたいとか、理想を言います。しかし、時代はスピード化しています。カッコ良くやっていたら、その間に3回入れられてしまいます。
時代は動いています。常に勉強と研究・実践・反省、そして夢をもって頑張りたいです。

 

熊物語その20「ワンハンドシュートへのこだわり」 

 先日のショットについての続き、その2です。
●ワンハンドショットはボールの下から見て打つと、さらに打点が高くなる。
 ○ボールの上から見てショットすれば、それだけ打点が低い(20〜30cm)ので、カットされる確率が高いし、DFに顔のところに手を置かれれば、シュートできない。
 ○腕が短い人は、左手の支えを少し下の方にずらすと打ちやすくなる。
 ○手足が長い人は、頭よりはるか上に位置し、手首のスナップで回転させて打つ。
 ○ボールは、最後に人差し指か中指が離れる感じ(人によっては、両方の指)で回転させ、コントロールする。
●家の中でも常にボールを持ち、小さなボールでショットしている。
 ○小学3〜中学1年ぐらいまでは、家で座布団の上に正座して(足が痛くなるため)、鴨居につけた小さなゴール(市販)にショットする。指先のコントロールとループの感覚がつく。
 ○必ず記録をとり、統計を取ることが大事。
 ○この地道な努力が、あとで実を結ぶ。私の息子(今のところプータロウ)は、小学3年  からやっていたおかげで、仙台高時代インターハイ3P日本一の27本、仙台大時代全  国大学選抜大会で優勝しMVPとなった。
●なぜ一本入ってから数えるのが良いのか。
 ○入った感触を手・指先・目・身体全体で体験し、忘れないうちに同じようにして打つと入るという感覚を身につける。
 ○目が悪くともシューターになれるのは、訓練によりこの感覚が発達したからである。
 ○記録は、6・6・7・7・7のように一定しているとか、6・7・7・9・10のよう  に右肩上がりのカーブで良い。悪いカーブは、5・8・4・7・5のように上がったり下がったリのカーブだったり(気持ちにムラがある)、9・7・6・5・4のように疲  れてきて最後が下がって終わるのは、この次のプレーに良くない。やはり最後は気分良く終わるのがコツである。
 ○50本ペアで(空いているポジィションからドンドン打ってゆく)打ったら、もう一度5箇所ショットかフリースローへ。上手くなって来たら3Pショットも打つ。相手のゾーンDFを崩すのに、3Pショットぐらい遠くからのショットインは、大きなダメージを与える。
●ボールを支える両手は、どのように持っているのか。
 ○床にボールを置き、チェストパスのように自然につかんで少し左に回し、頭の上へドッコイショでよい。
 ○人差し指か中指を垂直にしてボールを持つと、ヒジが張らずボールの回転が真っ直ぐになる。
 ○人によって違うが、シュートの際リングの見る所は、手前か後ろか。
  私は、手前にしてループを少し上げるようにしている。このときのループのコツは軸足のヒザを曲げてふわっと行くような山なりのループ(軌道)にする。
●ボードを上手く使っているシューターは、名シューターである。
 ○ゴール下では、相手の手もありチェックされているので、リングがうまく見えない。そこでボードを上手く使ったシュートが必要になってくる。まず、小さく書いてある四角形あたりを狙って回転をつけてシュートすることが大事だ。
 ○下から上への回転(通常のスピン)をかけると、ボードにぶつかって逆に下に進むが、上から下への回転だとボードにぶつかつて上にすすむ(引力がないとそうなる。昔、NHKでピンポン玉を使って実験していたのを見たことがある。)

さて、追加ですが、
高校ぐらいになってくると、5ポジィションショットでも、一回ごとに左右にミートして打つ。軸足を変えて打つとかになる。いつも試合中と思ってシュートする実践的なトレになる。大事なのは、続けて入れる、続けて落とさないこと。10本目は入れる。疲れてきてからが本当の勝負なのである。

 

熊物語その19「ミニバス女子のシュートフォーム」

 ○ワンハンドショット
うちのチームは男子も女子も、初めからワンハンドシュートで教えています。もちろん小1からです。初めは届きませんが、下級生は約一年ぐらいあと、上級生は半年後にサマになってきます。女子のツーハンドは日本だけということも聞いていますし、女子は手が小さいからダブルハンドと本気に考えている指導者もいます。とすれば手が小さいのは、世界中で日本人だけということになります。小さい人は片手のボールハンドリングを上手くさせれば良い。そしてドッコイショッと頭にのせる感じ(人差し指か中指が垂直に位置する。)で目と目の間に、そのまま指で回転させながら(最低3回・スナップ)打つ。左手はほんの支える程度でいい。特に、女子はなるべくリングに近く頭の上からのシュートが有利である。
○シュートフォームの完成
まずゴール下(ほとんど下だと回転が自然に出来る)3ヶ所から初めは連続10回。慣れてきたら15〜20回連続入るまで打つ。右45°と左45°はボードを使って打つ(ぶつけて入れるループ)。真ん中はリンぐに直接入れる(直接のループ)。ここで2つのループを覚える。そのあとに、2人ペアになって5箇所ミドルショット(5ポジィションショット)を打つが、人によって少し近くとも良い。さて、まず1本入ってから10本を数える(ぶつかって入ったのはカウント。入らないのはノーカウントでやり直し)。そしてそれをシュート記録用紙に記入する(1か月ごとにまとめ、発表する。)。やってるうちにだいたいの人は70〜85%常に入るようになる。そこでなるべく入る人をゲーム中シューターにしよう。一度やってみてください。

 

熊物語その18「’02能代カップのこと」

 ミニバスの交流大会(5月3〜4日福島県須賀川市。男子決勝の須賀川49ー47久之浜が良かった。どちらかが全国に行くでしょうし、夏の東北大会でも決勝を争うような気がする)で5日しか見れなかった。しかし、全国インターハイよりも高度なプレーが見れて恐ろしいくらい楽しかったです。女子バージョンの我高をしっかり見て(全勝した)、総合体育館に移動。すぐにステージの加藤廣志先生にご挨拶して、能代工116ー66鹿沼東、新潟商111ー79市柏、そして能代工130ー95三一商(韓国)と閉会式を見た。鹿沼東は全敗ながらも、大観衆の前で試合が出来たこと、言葉で言っても伝わらない部分をカラダで覚えたことが収穫だったようだ。市柏はビックセンター太田(ボードを使ったシュートがほしい)を中心に使ってなく、それぞれが上手いけれど切れ味が今ひとつで、昨年の国体の力強さ抜け目のなさがなかった。新潟商は良かった。全員がフォワードでシューター揃い。確率も良くバッサバッサとミドル、3P入っていた。NO.4熊倉(192cm)がトップにいるのが気になったが、そこから3Pが入る。下級生がいい。NO.11斎藤のガード力、12緑のシュート力・フォワード(足のケガをものともせず、跳んでいた)一年生17竹内のガード・力強さ。来年の方が強いと見た。小林高は見れなかったのでコメントなしです。すみません。さて、決勝は両チームのボールに対する執着心から、ファウルが続出し、審判の判定に三一商ベンチが抗議、荒れに荒れた(テクニカル4〜5回)。「三一商ばかりに偏っている」と審判のファウルの取り方を抗議し、韓国では当たり前に交代メンバーをだすのを遅らせたり、審判への抗議は選手への志気を高めるためで、コーチの役割とのことだが、国際審判員の的確なジャッジは良かった。加藤三彦先生の「試合を台無しにする気か」と大声を張り上げ「文化の違い」と理解はしたが「海外での戦い方を勉強した方がいい」と苦言。ところが能代工の選手たちはこの乱戦にも動ぜずペースを崩さず、精神力の強さが光った。三彦先生は「今まで教えてきた中では、一番いい選手がそろっている。最後まで自分達のバスケットをやってくれた。」とコメント。NO.8富田9高橋そして、いすずの梅津氏の息子梅津敬介1年(195cm)も素質大でした。それにしても、桜花高校の200cmの姉の弟河選手218cmは、ガッツやアピール性があり、NBAでも活躍しそうです。
それから、田臥やトヨタ自動車の小野、ジャパンエナジーの内海、月バスのブブンチョなどなど4,000人の大観衆でした。 また来年も行くつもりです。
優秀選手賞(高久順、内海慎吾、高橋優(以上能代工)、朴求泳(三一商)、熊倉浩一(新潟商)
個人ベスト 得点(1.高橋優126点、2.朴求泳125点、3.高久順124点、4.熊倉浩一121点、5.太田敦也116点) 3P(1.高橋優34本、2.朴求泳27本、3.青木宗記20本、4.内海慎吾19本、5.熊倉浩一15本)

 

熊物語その17「宮城県最大の指導者・佐藤昌士先生NO.1」

私がバスケットボールで影響をうけた最大の指導者は、佐藤昌士先生(松島中・利府中・しらかし台中、現常盤木学園講師)である。
私は高校まで福島県福島市で育ち、宮城県仙台市の東北学院大に進学し、そのまま東北最大の経済界の街、杜の都に住むようになった。そして、現在も仙台市太白区の長町南・富沢にいるが、若い頃の夢であった学校関係の仕事につくまで、なんと25年もかかった。
さて大学時代は、前にもお話した通りスタミナ配分とダッシュミートしか教わらなかった。全て高校時代の技術で間に合ったというか、東京の大学に行ったOBが時々帰って来ては指導してくれ、また、地元の社会人の先輩も教えてくれたのが高度なレベルだったのだと思う。
大学卒業後、「バスケットボールの指導者になりたいのだけれど、宮城県には手本となる良い指導者がいないなあ」とがっかりしていた。また、前々から考えていた自由なバスケットのサークルを作ろうと考えていて、大学のOBチームでなく一般の青空クラブ(転勤族・学生・途中で止めた人・初心者などの男女で構成、試合のほか月一回の誕生会やドライブ・キャンプ・クリスマス会など。ここでカップルになった人も3組)を作り、バスケットボールを楽しんでいた。ある時、大会が近づいたのであっちこっちに電話して練習試合を組もうとしたが、なかなか
相手チームが見つからなかった(ジプシーのため毎回練習場所が違う)。たまたま、前に指導者講習会に参加した時の講師で教え方がうまかった佐藤昌士先生の顔が浮かび、松島中クラブと練習試合をやるため佐藤昌士先生に連絡したところ、二つ返事でOKされ、「私はいないけど、使っててください。あとで先輩たちが来ますから」とのこと。これには正直ビックリした。普通は、借りに行くと何だかんだと理由をつけて、体育館を貸してくれない先生がほとんどだったからである。その時、佐藤昌士先生も「青空クラブって日雇い土方の人達かな」などと思っていたと後で聞き、度量の大きさに仰天した。この時はまだ佐藤昌士先生と直接親しくお話したことはなかった。
初めて松島中の体育館に行ったとき、床にテープで点線のサークルがたくさん張ってあった。一度に全員を動かすように工夫されている。壁には練習日の出席表が張ってあった。
何も言わずとも競争するように仕向けている。いすドリブルショットも流れるようにやっているけど、ドリブル突破には非常に効果的なトレーニングである(うちでも昔から使っていてガードなどのボール運びに最適。強気の性格に変われる)。試合では、とにかくメンバーを固定せず交代が多い。ベンチで指示してまたすぐに出してやる。タイムアウトは相手を休ませるので、あまり取らないとのこと。
「阿部さん!バスケットはシンプルで、空いてればシュートだし、くっ付いて来たらカットインかポストにパスだよ」と言われたが、なるほど簡単で分かりやすいなと思った。今でも、いつも実践している基本プレーの一つであるが入らなければ意味がない。
教え子には、聖和高の歴史を変えた松浦徳子(元コーチ)がいる。つづきは、またあとで!

熊物語その16「うちの校長、ミニバスの監督になるNO.4」

(後半)
この時、待ってましたとばかり子供達に言ったことは「ここまで来られたのは、自分達の努力だけではなく、大会会場準備のために朝早くから作業をしていた役員さんたち、車を出してくれたお母さんたち、練習のために体育館を貸してくれた学校、と多くの人達に世話になったことは忘れるな。会場を出るときに会った大人の人たちには、有難うございましたと言って会場を出ろ」と、感謝の気持ちを持たせようとした。あとに、小学校の教頭先生から「普通、優勝した子供達は、学校で威張りだすのに、バスケットの子供達は、誰も威張ったりしていませんよ」との言葉を頂戴して、ホッとした。
その後の大会では、ライバルチームと勝ったり負けたりしていたが、「学校の勉強をしないと、バスケットもうまくならないぞ」と言ったら、突然親がビックリするほど勉強を始めた子。人の目を見て話が聞けるようになった子。目標に向かって苦しさを乗り越えられる子らが次々に出てきた。
最近の家庭教育でも学校教育でも難儀をしている、人作りが出来る数少ない機会がここにある。と確信の一念で、大会の度ごとにヒザに湿布を張りながら審判としても走り回っているオジサンである。
35年前ごろ、初めてアメリカに行った時、周りの大人があまりにも早口で英語をしゃべるので、つい私が寄って行ったのは、そこにいた犬であった。犬とおしゃべりをした。
人種差別をしない犬、初めての日本人を見ても、しっぽを振って寄って来てくれた。そこで私もその気になって、おしりを押さえながら、「おすわり」とやってみた。そうしたら足をピーンと張って座らない。「あれ、コイツ日本語バカにしているのか」と思い、試しに英語でやってみた「セッダウン!」そしたら今度はピシャッと座った。学校へ行ったことのない犬が「セッダウン」の一言で座ったのだ。その時に、英会話というのは、頭が良くなくては出来ないものではなく、慣れと度胸だなということがはっきり分かつた。ホームスティの時には度胸でいけば、不自由なく過ごせると思う。
また、先生・指導者の八つ当たりも、我々指導者としても注意が必要である。やはり35年前の修学旅行の時、「6時から大広間で夕食です。遅れないように時間まで集まって下さい。」と言われて、私は6時までに大広間に行った。行って見ると、友達が半分ぐらいしか来てなくて、そのうちに食事担当の先生が、「なんだ、この集まり方は!」と怒鳴った。私は、その次から時間通りには行かないことにした。本当は、「君達はよく時間通りに来た」と言って、誉めてやらなくてはいけないのに、時間までに集まって来た人達が怒られる。
これ、先生・指導者たちの八つ当たりなのである。

 

熊物語その15「うちの校長、ミニバスの監督になるNO.3」

<輝け わんぱく軍団> (前半)
小学校のミニバスケットボールチームの監督を頼まれ、わんぱく坊主達(男子のみ)との生活が始まった。「集まれ」と言うと渋々歩いてくる子。「そのボールを片付けろ」と言うと「なんでボクがしなきゃならないの」と答える子。グッと我慢し「そのまま練習始めたらどうなる」と聞く、「誰かが踏んだらケガします」と、答えられるほど彼は分かっていたので「それを片付けるのがオマエじゃない理由があったら言ってみろ!」と怒鳴って、やっと一つ理解する。並んで順番待ちをしている時に床に寝転がる子。人が教えているのにアサッテの方を向いている子。上級生を呼び捨てにする子などなど、それは到底バスケットが始められる状況ではなかった。
そこで、10項目の約束事を作り、守れない者には罰ゲームを科すことにした。その内容は、「集合!」と言ったら走って集まること。練習中は靴の底以外は床に着けないこと。「なんでボクが・・・」という質問をしないこと。上級生を「先輩」と呼ぶこと、など大変
レベルの低いものであったが「集合・整列」が10秒以内で出来るようになるまで、約二ヶ月かかった。その直後の公式試合は勿論初戦敗退であった。
その時、子供達が「強くなりたい」と言い出した。仙台市内のブービー賞レベルのチームに競技の楽しさ、そして努力と礼儀を学んでもらえれば位の気持ちだった私は、「体力も必要になるから、よそに負けない激しい練習になるが、本当にやりたいのか」と念を押したところ「はい!」と言う返事が意外と簡単に返ってきた。
練習メニューを切り替えると間もなく、軍隊のように気持ちのいい動きをするようになった子供達だが、所詮人間は弱いもので、どこかで手抜きが始まる。そんな時、「集合!」の声をかけると全速力で走ってくる。「お前達は楽しいバスケットが出来ればよかったんだよな」とチクリと言ってやると、全員合唱で、「違います」と答えるので、「今、とっても楽しくみんなでやっていたんだから、それでいいんじゃないか」と言うと「間違ってました」と来る。「そうか、自分達が本当にやりたい事をやってもいいぞ」と言って練習に戻してやるとガラリとスピードが速くなる。怒鳴る必要が無くなり、本当に指導も楽になった。結果、戦績はそこそこになり、次年度の春の青葉区大会と仙台市大会では優勝することが出来た。 
つづく

 

熊物語その14 「生涯最大のライバル桜丘小柴田豪先生NO.2」

県のミニバスケット新人大会(1月〜3月)は、当初柴田豪先生と私とで、「なんとか宮城県をミニバスのみならず中学・高校なども結果的に全国レベルになるようにしょう。」などと相談し企画(その努力が県ミニバス連盟からも認められ第5回から県の連盟主催になった。)、各チームに呼びかけて運営した大会であった。桜丘小で何度も午前様になって作ったプログラムは、大変立派な出来ばえであった。
桜ヶ丘中でも全国中学大会で2回準優勝しているが、何のことは無い、柴田豪先生の指導の賜物なのである。大事な大会には、必ず県外にまで応援に行って、スタンドで大声を張り上げ、ハーフタイムでオープン指導をしていた。また、桜ヶ丘中がワープしたかのように強くなっていった当初、審判団から非常に評判が悪かった。「生意気だ!」「態度が悪い!」「礼儀をしらない!」等々で「汚いファウルだから、こういう場合はレフリーみんなで・・・・!」とまで審判団は言っていたようだ。しかし、桜ヶ丘中学は、凄いチームであった。それ以上に全国レベルのチームに大差で勝って行くと、今度は協会のみならず審判団までもが、応援してくれる様になっていった(勝てば官軍、勿論本人たちの努力も多々あった)。
どうして私の生涯のライバルなのかというと[私には持っていないポケットをたくさん持っている。指導者としても全国で活躍し、指導した全国レベルの選手も各地で大活躍している。発想が柔軟である]からである。また、柴田豪先生に教えられることも多々ありました。[強気の攻め、バスケット以外の生活面(宿舎、冷暖房、食事、睡眠)、子供の特性の精神面の強さを出させる力、自分に対する厳しさ、寛大さ、常に全国を見る目など。]。
一昔前の宮城県の人たちは、「試合はやってみないとわからない」「シュートはパーセントだ。確率は高い方が良い」「バスケットの理論はこうだ」などと言う人がほとんどだった。
しかし、能代工業バスケットボール部元監督の加藤廣志先生は、「試合は、やる前にどっちが勝つかわかる」「分析するとうちが勝つことに決まっている。」「シュートは、全部入るものだ」「バスケットはこうだというものはない」と自信をもって言っているいるのを聞き、また指導している現場を見ていると「これは、逆立ちしても、どうもがいても、宮城県のレベルではカナワナイ」ということが、私の頭でも明快に分かった。ある時、加藤廣志先生から手紙が来た。桜ヶ丘中のセンター(186cm桜丘小出身)の子がほしいとの事だった。しかしこの子はもう、仙台高に何度も練習に行ってるし、そもそも仙台高に入りたいために、地方から桜ヶ丘中の近くに転校してきたことを手紙に書きお断りした。御大自らの手紙に驚愕したが、「全国レベルを維持している人は考えてることが違うなあ」と思った。
ここで加藤廣志先生からいただいた、ハガキや年賀のコメントを紹介する。
「ウィンターカツプのテレビで阿部さんの姿を見て嬉しく思います。能代を離れて5年目に入りますが(秋田市の県庁勤務)、バスケットにかける皆様が日本のバスケットを支えて下さり頭が下がります。御活躍お祈りいたします。」「日本のバスケットの底辺を支えて下さりありがとう存じます。御子息の御活躍を祈ります。」「仙台大インカレベスト8おめでとう。ご子息立派に成長され楽しみですね。オールジャパン期待しています。」「ミニバス優勝おめでとう。[高さへの挑戦]改訂版を5月1日発行します。ご一読くだされば幸甚です。」「ご子息オールジャパン出場おめでとう」。

 

熊物語その13「うちの校長、ミニバスの監督になるの巻 その3」

  うちの校長、ミニバスケットの監督になるの巻き・パート3!
 前回の訂正ですが、ミニバスケットを指導したのは丸2年間でした。

 先ず、<人は情熱で動く>「僕は好きだからバスケットをするんだ」といった自発的行動が例である。次に、<人は利益で動く>運転手の歩合給や、「太郎ちゃん、今度100点取ったらゲームボーイ買ってあげるわよ!」といった例。そして三つ目は<人は脅迫で動く>である。「万引きして来ないとボコボコにするぞ」、「赤点取ったら進級させない」といった罰則による管理である。この中でもっとも即効性が高いのが[脅迫]である。但し、脅迫者たるボスや指導者がいない時には、課題の行動を止めてしまうため、持続性においては最低である。指導者の過程では[利益]指導も有効であるが、持続性のためには納得した[情熱]を持たせることが重要であり、指導も楽になる。脅迫専門の指導者を見かけることもあるが、「よくもまあ、エネルギーが続くものだ」と感心する。そういった自分も脅迫を使ったこともあるし、暴力を使ったことも2〜3回あったが、全てコート外のマナーや生活の部分であった。最初の被害者はいじめっ子だった。いじめられてる子の母親がある時言いに来た。「うちの子がいつもいじめられるので、相手の親にも話したけれど、何もしてくれない。」とのこと。どうやら学校の指導も親の指導も効果が無いらしいと思うと、解決の可能性があるのは自分の所しか無さそうだと使命感を持ってしまった。まもなく、現行犯を目にした時、加害者に言った。「お前の心の中には、いいやつと悪いやつが住んでいるようだが、どうやら悪いやつの方が強いらしい。お前はその悪いやつと戦って、自分の心から追い出せ」と言って手を上げた。後にその子の父親に経過報告をしたところ「はい、よろしくお願いします。」との返事で、親も手を焼いていた様子だった。一方被害者は泣き虫で、いじめると面白いのはよく分かった。一度練習中に彼に向かって大声を出したところ泣き出した。この泣き虫病を治すのも必要と思い、「まさか男の子が泣いているんじゃないだろうな。俺の前で泣いたら、泣きやむまで殴るぞ。お前は泣いてるのか、泣いてないのかどっちだ!」「泣いてません!」「よし!練習に戻れ」。その時彼の頬には涙が流れていたが、その後いじめの報告は聞かれなくなった。
ある大会の時、一人の選手がいなくなった。しばらくすると戻ってきたので「どこに行ってた」と聞くと、「ユニフォームを忘れたので取りに行って来ました」とのことだった。審判するために履こうとしていた私の手に持っていた靴は、彼の頭に振り落とされた。「二度と忘れるな!」と言った私に向かって、世話係のママさんが「その子が悪いのではなくて、親が悪いのだから叱らないでくれ」との反論に、「この子のお母さんは四人の子供を育てていて忙しく、この子一人に構っている暇はないんですよ。一日も早く自分のことは自分で出来るようにならなければいけないんです。親の責任だから、この子の支度がいつまでもいい加減で良いわけがないでしょう。」と言った。親が悪いからといって、私がその子を叱らないでいたら、いつまでもその子はそのままで終ってしまう。
指導や教育はあくまでも、子供の未来の幸せと自立へのアシストであって、それを阻害するレベルまで手を差しのべるのは過保護でしかない。足のつくプールでいくら泳いでも、うまくならないのと同じである。子ども自身が、少しのケガでとどめる工夫が出来なくてはダメなのである。ケガをするから運動会をやめるとか、修学旅行を短くするとかという話しもあるが、これでは元気印の子供を作ることは、出来なくなってしまうのではないだろうか。

 

熊物語その12 「生涯最大のライバル!あの伝説的な桜丘小ミニバス監督・柴田豪NO.1」  

私が立町ミニバスを指導し始めた頃(1978年、この頃は月に5〜6回の練習だった)、1年遅れて一人のバスケット素人マンが、八本松小でミニバスケットを教え始めた。本職は、もちろん先生だが、水泳の指導者であり、県で一番偉い水連先生のカバン持ちであった。非常に鼻っ柱が強く強引だったが、ある時私と歳が同じであることが分かり、意気投合した。しかし、1981年、出来て間もない桜丘小に赴任して行った(その前年八本松小は東北大会に初出場した)。
さて、桜丘小が全国に行くのにあまり時間はかからなかった。なんと1982年には、全国大会に初出場してしまったのである。この年は凄かった。天才的なガード坂井謙治(いすずの佐古と同じ歳、同じくらいの能力があった。全国中学大会準優勝の立役者、仙台高出身)、阿部理(JBLトヨタ自動車2,04m)、佐々木英樹(仙台高)、佐藤幸太郎など。しかし、全国大会(福岡)では、全敗した(ガードの坂井は父の指示で、飛行機でなく電車で仙台から福岡まで行ったため、試合中バランスを崩し転んでばかりだった。岩手の盛岡選抜に三浦祐司能代工ー日体大ーJBL−宮城教員がいた。すでに186cm)。
学校の先生は、運動会などで、動きのいい子をチェックして誘うので、誰もが「先生に誘われた」と有頂天になってOKしてしまう。[頭のいい子、運動神経のいい子、ケンカの強い子、大きい子、スピードの速い子]などを入れるため、まずどんな状況でも冷静で、逆境に強いマイペースな試合ができる強さがあった。
その頃仙台高は、強くなりつつあったが、まだ力不足だったので、柴田先生も県外に選手を送った時もあった。その他教え子としては、福岡大濠高に行った岡本友和と伊藤義訓(拓殖大からJBLの東芝)と佐々木竜二、仙台二高に行った佐藤克則(小5まで私の教え子)、土浦日大高に行った岡本次郎、能代工から腰痛で仙台二高に入り直した小口雄二郎、同じく能代工で頑張った中里起三・黒沢真樹、仙台高バスケットの副顧問佐藤剛先生、仙台高から専修大に行った3Pシューター相沢義政、仙台電波高専に行った菅原武志(彼のオフェンスは、わざとディフェンスの所に行きファウルをもらってからシュートを入れることが得意だった)聖和高から積水化学に行った松本博子(女子)、聖和高から学芸大に行った全国優勝した時のキャップテン舘内彩(女子)、東北学院大4年の村岡啓太、仙台高全国優勝時のキャップテン大場充、3Pシューター高橋圭太郎、新潟商に行った日下光などなど。よくもまあ短期間にいろんな選手が育ったものだと思う。「阿部君!おれは絶対全国優勝するぞ!」と言っていたので「ずいぶん大胆な発言をする人だなあ。これは応援しなきゃあ」と思った。そして、すこしでも多く「勝つノウハウ」を柴田先生から勉強した。
しかし夢は実現するもの、1985年にはなんと全国準優勝(戦績全国大会出場7回、うち6年連続は新記録、全て男子)をしてしまった。
妥協しない柴田先生は、あるとき夏の県大会で優勝したにもかかわらず、内容が悪いということで、会場から桜丘小まで走らせたこともあった。勿論本人も走った。
宮城県のレベルをトップにまで上げた本当の立役者は、「あの伝説的な男・今ではもう語り継がれている幻の男・それが柴田豪、現○○○小教頭先生」なのである。

 

熊物語その11 「うちの校長、ミニバスの監督になるの巻き!」

前回、好評につき第2回です。
自分の息子が世話になってきたミニバスケットボール少年団の監督を頼まれ、引き受けることにした。何がきっかけかは別として、30人の子供たちが体育館に通ってくるからには、あの底抜けザルへの玉入れがいかに愉快なことかを、確認体験させることから入った。先ずはシュートとドリブルから楽しませてやった。入団直後の子たちが多く、チーム内のルール作りが最初は一番大きな仕事だった。「集合、整列」だけで1分以上かかったり、シュートの順番待ちで並ばせると床に寝転がって待つ子がいたりで、かなりの無法状態であつた。この「集合、整列」が10秒以内で出来るようになるまで、約2ヶ月かかった。その間に最初の大会があり、デビュー戦での1回戦敗退は当然だった。
子供たちの反応は意外と早く、夏には子供たちが「勝ちたい」と言うようになったので、そこで初めて強くなるにはディフェンスの練習と体力が必要なことを説明し、即日練習メニューを変更した。選手自身のやる気レベルに合わせた練習メニューの効果は明快だった。
人間が成果を出す時の公式が「やる気×能力」である。世にはもう少し複雑な式を使う方もいらっしゃるが、要は一方がゼロなら答えはゼロということは間違いない。ところが日本の社会や学校では「やる気」が出ていない子に能力をつけようというあまりにも空しい教育もどきが行われているのではないだろうか。この式を理解していない欠陥教育者たちの共通コメントは「やる気のないあの子が悪い」である。教育者の最初の仕事を「やる気」養成とすれば、大変愉快な人生ができるものだ。@「興味を持たせる」A「好きにさせる」この段階で成功は約束され、B「感動体験」が伴えば不動の結果が来る。砂に水をかけるが如くに吸収する若者に教えることは誰にでもできる容易な仕事である。スタートでの「やる気」養成しだいと実感している。

 

熊物語その10 「能代工元監督加藤廣志先生、長町南小に現れる!」(後半)

ビール、ワインを飲みながら、相変わらず加藤先生のトークは衰えることを知らない。
有望な選手をスカウトしたくて、県外まで何回も行ったこと(今の能代工業のスカウト網は素晴らしい。各地にいるOBや協力者が適時連絡してくれるようだ)。能代工OBで、元ジャパンエナジーの安達康選手が中学生の時(現利府高校教諭、昨年の宮城国体で成年のキャップテンとして全国優勝、冷静な試合運びと3ポイントで大活躍をした)、仙台での高校の東北大会の際、東北福祉大体育館で練習している仙台一中の安達君を見にこられ、スカウトしたこと。挫折やホームシックで脱走した生徒を、目星をつけた駅で捕まえ説得したこと。東京で病気療養していたとき、秋田の能代に大量の10円玉で電話をかけ、あれこれと指導や指示をしたこと。学校経営の難しさに共感し、営業がおもしろいと話されたこと。元伏見工ラグビー部山口監督とも懇意にしていること。また「全国の優秀な指導者に多数会ってきたけれども、全員の共通点は先ず謙虚なことでしたネ」などと話されたこと。そして、突然私に向かって「あんたは凄い、あんたのバスケットにかける情熱は凄い」と言われた。「金田君!バスケットでは、阿部君には絶対勝てないなあ!」と天下の加藤廣志先生に言われ、私は目頭が熱くなり、涙が出そうで困った。次の日の、国体強化のための加藤廣志先生による講演会では、私の名前も出て、1999年3月全国ミニバスケット大会に長町南男女アベック出場するが(1998年3月は女子)、家族が交通事故で亡くなり一人ぼっちになっても、明るく元気にバスケットに打ちこんだ小6の娘のことも、加藤廣志先生は涙ながらにお話しされた。
ここで加藤廣志先生からいただいた色紙、手紙に書かれていた言葉を、ご紹介する。
色紙・「泥臭さを大切に」「一盲引衆盲」「高さへの挑戦」「立体は平面を制す」「夢に生きる男」「バスケットに生きる男」 手紙・「相変わらずバスケットの指導に情熱を持っておられ、それなりの成果を収められておることに対し、哀心より敬意を表します。最近本物の指導者不足で、貴男のような指導者は貴重な存在だと思っております。どうか今後とも、夢の実現のため大いに頑張って下さい。1992・9・20印」
  次回は、私の最大のライバル「桜丘小・柴田豪先生」の巻き

熊物語その9 「能代工元監督加藤廣志先生、長町南小に現れる!」

1999年2月初め、突然自宅に加藤廣志先生から電話が入った。「2月12日仙台で講演があるので行くが、11日能代山本リゾートセンター・アリナス(加藤廣志先生は、ここの館長になっていた)の宣伝も兼ねて、前々泊したい。アリナスはスポーツの宿泊研修が出き、バスケットボールコート4面と温泉もある。それに、ぜひ阿部君と話がしたい。」とのことだった。「ぜひお願いします。それと加藤先生!お時間があれば、うちのミニバスのチームを見て頂けますか?」「オオッ、ぜひ見たいネェ」とのことだった。
11日ホテルに行き、先生をお迎えした。「やあ、お元気ですか」「お久しぶりです。」私の車ですぐに長町南小に行った。「ほう、いい体育館だね」「もう10年経ちますが、いつも雑巾がけしています」。佐久間キャップテンがみんなを代表して挨拶した「よろしくお願いします」。「オオッ、みんな大きいネェ」。ドリブルシュート(5年の女子の、スピードあるレイアップショットに驚く)、オールコート4対3などが終わり、「ゲームが見たい」とのことなので、5対5が始まった。ガート佐久間、フォワード、松野、センターフォワード浅野、そして、パワーセンター主浜らに「すごいスビードだネェ」「シュート入るネェ」
「速攻がいいネェ」などと言われ、終わって全国大会の目標を聞かれたので、みんなが「全国優勝です」と答えて、握手をしていただいた。余談だが、3月末の全国大会で東京へ出発のとき、偶然乗ろうとした新幹線[こまち]から、加藤廣志先生とテイ夫人が降りて来られた。福島で(常磐線乗り換え)結婚式があるとのこと。運がいいとは、このこと。長町南は、この時本当に全国優勝してしまった。
さて、この日の夜は5人で懇親会を行った。メンバーは、加藤廣志先生、金田一氏(仙台在住、能代工OBで山本浩二らと全国優勝している)、松良千廣先生(常盤木学園理事長・校長)、牛渡利光先生(うちのバスケット部顧問)、そして私だった。
ここで、うちの高校のおもしろい校長を紹介しよう。おそらく全国でもまれに見る[ユニークな][英語ペラペラな][正義感のある][校長の話が的確で非常に短い][実行力のある]人である。3年間ミニバスケットの監督もやられ(名門仙台一高バスケット部出身)、仙台市で優勝したこともある。以下校長談[コート内でも区別をしたのは、ミスとナマケだった。ミスは能力の問題で、決してゼロにはならない。天下のマイケルジョーダンでも、フリースローをミスすることがある。ミスを減らすためにするのが練習である。片やナマケは意識の問題であるから、練習量で解決はしない。ルーズボールやリバウンドを取りに行かない等で能力の問題でないため、脅迫による指導がかなり有効な部分であろう。ミスはゼロを目指すが絶対ゼロにはならない。脅迫ではなく練習量で改善する。ナマケはゼロを目指し本当にゼロにできる。指導者はあらゆる方法を使って排除すべきである。これを放置すれば、「人間はナマケた方が得」と誤解したまま大変不幸な社会人になってしまう。今日の試合の勝敗などより大きな問題である。]
後半は、後日に

 

熊物語その8 「クマさんの東方見聞録」

2001年・能代カップに参加して[常盤木学園(女子)高と長町南ミニバス]
 2001年1月初旬、能代市バスケットボール協会事務局から、うちの高校に電話が入った。「今年の能代カツプに出ていただけますか?」正顧問の牛渡先生は、二つ返事で答えた「ハイッ、出させていただきます!」。私はこのことを聞き、長町南ミニバスもお願いしようと思って、能代ミニバスの石井先生(能代市ミニバスの事務局)に連絡し了解をいただいた。
5月3〜5日、貸切バスでいざ能代へ。4時間ほどかかり、能代市に入ると、道行く道の外灯がバスケットのゴールになっている。JRの能代駅にも有名なゴールがあるが、さすがバスケットの街である(同名のお菓子も美味しい)。
男子は、月刊バスケットボールやベースボールマガジン社に大きく載り、チームも一流だが(2002年は、韓国の高校チャンピオンが参加するらしいる)、女子とミニバスは、地元紙に載る程度であり、非常に不満である。特に女子は、ポスターにも載っているのだから、「月刊バスケットボールのブブンチョさん!高校女子も載せてください!」。まず、試合会場の能代山本リゾートセンター[アリナス](4コート、温泉もある)に行く。館長の加藤廣志先生に会いに行くが、まだ出勤なさってなく、しばらく体育館で練習していると、わざわざコートまで加藤廣志先生が来てくれた。「オオッ!久しぶりだネ!」「ハイッ今回はありがとうございます!」館長室に山の絵が飾ってあった。「私は山が好きなんですよ!今まで、駅と試合会場と旅館の往復だったからなあ」と言った。
参加チームは、男子<市柏高、小林高、東住吉工、宮城選抜、能代工、東海大四高、全日本ジュニア> 女子<常盤木学園、盛岡白百合、能代商、能代北高> ミニバス<能代、富根、長町南、ほなみ、弘前サザンクロス他>。うちの高校女子の試合は、エースがネンザしたが、2日間とも高速バスケットで全員出して勝つことが出来た。ミニバスは、男女とも勝ったり負けたりだった。運営面では、帯同審判・オフィシャルで忙しく、ほぼ全チームとゲームできたが、それだけでチャンピオンを決めて表彰したり、順位を決めてやるともっと面白くやれるような気がした。しかし、大変勉強になつた。
レセプションでは、高校女子の代表で年上の私がスピーチすることになった。辻兵吉日本バスケットボール協会名誉顧問、加藤廣志先生はじめ清水義明先生(日体大監督)、佐藤久夫先生(同級生、全日本ジュニアコーチ、仙台高)などの前でお話するとは光栄であった。
隣の席は山本浩二(元全日本のキャップテン、娘さんが今年うちの高校に入る。)の兄だった。3日間とも夕方から、全日本ジュニア(田臥裕太、柏倉秀徳、佐藤健介他)と高校男子の試合を1Fのフロアで「かぶりつき」で、見れた。迫力満点だった。天井は、反射光で直接の光がなく、やさしい光線でシュートがしやすい。超満員であった。
さて、ミニバスの飲み会があった。人が多いのなんのって。ここの石井ご夫妻は、見ているチームが違う。奥さんは宮城県の岩沼出身だが貫禄充分で、能代ミニバス監督として、平成8年全国優勝(男子)している。息子(次男?)はその時5年生だったが、ガードのプレーが恐ろしいくらい上手かった。(6年生の夏の東北ミニバス大会準決勝長町南ー能代戦は、どちらもシュート力があって、攻防の切り替えが速く面白かった)。今年4月、能代工業に入るらしいが、全国デビューも近いと思う。きっと、ナイスアシストパスとか、ノールックバスとか感動をよぶプレーをするだろう。おみやげに、仙台高の志村雄彦の色紙と志村君が使った練習用パンツをプレゼントした。2002年、今年も常盤木学園が招待された。

熊物語その7 「能代工業加藤廣志先生、仙台での旅館秘話」

仙台市内にある東北大学病院の向かいのひっそりとした所に、「いこい旅館」がある。ここがいつも能代工業バスケットボール部が泊まる旅館である。もう何回加藤廣志先生を訪ねて来ただろうか。
午後6時ごろ、東北福祉大バスケット部コーチの佐藤森王君(元能代工業マネージャー、北海道小樽出身、どうしても能代工業に入りたくて一浪までして入ってきた。後輩の東出202cmの教育係だった。)とワインを持って、加藤廣志先生を訪ねる。「オオッ!」と言って迎えてくれる。さっそくバスケット談義となる。
加藤廣志先生は、ワインを飲みながらこちらの質問に実に詳しく、当時のことをまるで昨日
起きた事のように鮮明に答えてくれる。「人の名前や場所、途中の点数や場面、時間、良く憶えているなあ!」と思う。「これを本にしたらいいのになあ!」などといつも考える。
森王君の話によると大将は、ほかのスポーツの指導をしても、全国で勝つことが出来るといっていた。ここで加藤廣志先生のいくつかのコメントを書いてみる。
[小学校になってから初めて蒸気機関車を見たこと。中学に入ってバスケを始めたこと。スキーで学校に通ったこと。東北本線を汽車で、床に新聞紙を敷いて、寝ながら東京に遠征し、その時の王者中大杉並高(東京オリンピックに出た江川義孝氏がいた。息子は仙台で中学時代を過ごしたが能代工業に入る)に何度も行ったこと。新潟の三条高に遠征し、試合試合でお腹を空かして、フラフラでゲームをしたこと。あるとき、作戦をあれこれと考えて眠れなくなり、とうとう一睡も出来ず試合に臨み、しかし全く考えた通りの展開で勝ったこと。能代工業で指導し始めて、選手として国体の全国大会に出た。すぐ負けてみんなと近くを旅行することが例年だったが、先輩後輩の礼儀厳しい中加藤廣志先生はどうしてもナマの
レベルの高い試合を見たかった。当時結婚したてで「女房に会いたいのですぐ帰りたい」と
言うと誰もがOKをしてくれた。みんなが旅行に行ってる間に、片っ端から試合を見て回った。そして、それを忘れないようにノートに書き、急いで帰ってきてすぐに試してみた。
なかなかうまくいかないと今度は、今強い高校の大学生を能代に呼んで、寝泊りさせ指導させ身に付けさせた。などなど。
ミィーテングは、ほとんど生徒に任せ、マネージャーに記録させ、点検し何かあれば加藤廣志先生が話をする。あまり外に飲みに行ったりせず、いつも旅館に生徒といる。

熊物語その6 「能代工に行って、両加藤先生に会うNO2」

次の日(2日目)の朝、早朝練習ということで加藤三彦先生と早く起き、おいしい朝食をたべました。
ところで、前日の二次会で加藤廣志先生のカラオケを聞きました。定番とのことですが、なんと加山雄三の「君といつまでも」でした。セリフの「僕は君といる時が・・・・」のところを「僕はバスケットといる時が一番幸せなんだ」と言ってました。なんというバスケット好きなのでしょうか。
さて私は車を能代工高に置いて来たので、加藤廣志先生の車に3人で乗って出発しましたが、そのとき先生免許取りたてで「とったばかりだけど乗って行こう」と言い、非常ーに慎重な運転だった(貴重な体験であった)。
朝から2つのコートを使って、シューテングや個人練習やら・・・。加藤廣志先生は、関口はじめ県外組に、いつものように声をかけていた。やさしさと思いやりが感じられた。
シュート記録を(元マネージャーの佐藤森王君の話では、試合に来たチームが参考にするため、だまって持っていくとのこと)しっかりと付けていた。
午後の練習では、途中またゲームになった。レギュラーではないが、控えの3年生と2年生のゲームであつた。同点で終わった。加藤廣志先生烈火のごとく怒り「下級生と同点なら、メダルやらん!下級生にユニフォームやるぞ!」と言い、御大自らルーズボールを3年生にした。そして、「もう一度やる」と言って、また始まった。今度は3年生が勝った。指導の厳しさを、私に見せてくれたのかもしれない。
加藤廣志先生は、私たちに「バスケットボールというのは、今までで、こうこうこうだというものはない!」と言った。この言葉に私はいたく感動を覚えた。「自分で研究し実践して、それが成功すれば、それがあなたのバスケットボ−ルなのだ」と言った。バスケットボールは、なんと分かりやすいものだとその時思った。私ごときに、丁重に教えてくれた。

次は、2001年能代カップに常盤木学園女子高と長町南ミニバスが招待された!の巻

熊物語その5「仙台高バスケットボール部で2度気を失った3ポイントシューター」

前回の能代工に行って、両加藤先生に会うNO1.の中で、「長町南の・・・」は「立町ミニバスだった」に修正いたします。ここで、始めに書いた(大江君まだ小学6年生)は、現在JBLのオーエスジーフェニックスにいます(仙台高ー日体大ー日立)。仙台高校が一段と強くなった時の立役者です。大江君鹿野ミニバス6年生、その1つ下と3つ下で私の息子もやってました。私は大江君が卒業した次の年から、鹿野ミニバスの男子の指導者になりました。次男が小6の時、隣に長町南小が出来るということで、そっちに移っていきました。
次男は、毎日正座して(丁度いい高さになる)小さいボールで襖の上のところにちいさなゴールをつけて、シュートを記録しながら打っていました。いつも8割は入っていました。
中学は、スラムダンクのモデルにもなった富沢中です(対海南戦)。3年次、どこに進学しようかという時、(私は密かに、仙台電波高専から編入で仙台大にと思っていましたが)進学校の仙台向山高の推薦ということになりました。しかし、見事に落ち、次の私立東北学院高も試験で落ち、仕方がなくバスケの強い仙台高校に入りました。久夫先生にお願いし、バスケット部に入りましたが、入った途端、「あと1,090日」と言いました。また、夜の10:00頃帰って来ると、「あと8時間後だぁー」と言ってました。それほど強烈で、厳しい部だったのです。365日休みなしでした(今は休みが有るようです)。風邪をひくことは許されません。先生が怒って帰ったら、みんなで帰ってくるまで電話しまくりです。
いつでも3部練です(朝練・昼練・夜練)。
5月のゴールデンウィークに、2軍でオールコート2面分走らされてるのを、初めて私に見られ罰が悪そうにしていました。「ああ、たまには見に行ってやらんと」と思いました。
この頃に2度気を失いました。救急車で運ばれ異常はなかったのですが、「後一回やったらトレーナーかなあ」と思いました。それからたまに見に行きましたが、体育館の中は緊張で糸が切れそうな感じでした「この位やらないと能代工業には勝てないのだなあと思いました」。私と家内は、試合のたびごとに、あちらこちらと追っかけの日々でした。
さて、2年になってから少しずつシュートが入るようになり、ゲ−ムにも出されるようになりました。3月の春休みには、ドリームチームの一員にまでなりました。そこで最終的にレギュラーになりました。インターハイ県予選で優勝。6月末のNHK東北大会では、あの田臥(2年)の居る能代工に勝ち(阿部昭宏が田臥から5ファウルをとる)、決勝も福島工の渡邉拓馬(拓殖大ートヨタ自動車)に勝ち優勝しました。全国インターハイでも準決勝で能代工に負けましたが、3ポイント27本で日本一になりました。
足が遅くてディフェンス力もなく、ジャンプ力もない人でも、シュートさえ入ればレギラーになれることが分かりました(審判が笛を鳴らしても、ときどきシュートを打ってるのはどうして?と聞いたところ、シュートが入る感覚をつかむためにやっているとのこと)。
仙台大では、東北の大学の男子で初めてインカレベスト8になりました。また、4年次の
全国大学選抜対抗大会では東北選抜が見事優勝し、阿部はMVPをいただききました。
昨年の全国国体では、宮城教員の一員として、ぶっちぎりの優勝に輝きました。

熊物語その4 「能代工に行って、両加藤先生に会うNO1

1987年5月25日、宮城県も仙台高(大江君まだ小学6年生)が少ーしずつ強くなってきた頃、前から東北福祉大女子コーチの佐藤森王(学生、能代工業出身)君から耳にタコが出来るくらい聞いていた秋田県の能代工業に、吉田松陰の如く(実際に、この目で見ることが大事)ぶらっと車でアポなしで行った。当日居なかったらなどとは考えずに行ったのだ。
着いた時ちょうど6時間目だった。「ここが天下の能代工業だ」と感激した。すぐ体育館の教官室に行き、「加藤廣志先生はおいでですか」と聞いた。仮眠していた。「前によく東北福祉大の森王君といっしょにお会いした宮城県仙台市の長町南ミニバスの阿部です」と言い「泊りがけで練習を見学に来ました」と言った。「おお!良く来たね!!」と歓迎?された。ここで大事なのは、練習に入る前から入ったときのやり方だ。実にテキパキしている。
この第一体育館2コート全部を、バスケットボール部だけで使っていた。
3年生に鈴木、小林(山形県教員)、三浦(岩手県出身、宮城県教員、おみやげの柏餅をご馳走様ですとペロリと食べた)、2年生に信長(アイシン)、長谷川(いすず)や関口(元トヨタ2.01m)らが居た。加藤先生は、2年の長谷川を「いい子でしょう」と目を細めて宣伝していた。関口には、いつも身体の調子を聞いていた(加藤先生の著書によると、この少し後に脱走したことが載っている)。そして、関口にはローポストから振り向いてのボードを使ったシュートを大将(加藤廣志先生)自らパスをし、「いいぞー!お前のシュートは入る」と言いながら指導していた。深い愛情で接し、とてもやさしかった。しかし、とびっきりに厳しかつた。
夜、テイ奥様と新米の加藤三彦先生と2軒接待していただいた。寝泊りは、結局加藤先生の家の離れで、加藤三彦先生と一緒に寝る羽目になった。三彦先生には多大なご迷惑となったようである。

熊物語その3 「志村雄彦(仙台高校→慶応大学)君と全国大会準優勝」

元仙台高(現慶応大)の志村君は、小3〜4年から注目していました。特にDFは、よくもピッタリとついて行けるものだといつも感心していました。いわゆる、勘がいいとか、先を読む力がある人でした。ドラマは、将監中央小5年のときです。男子の長町南と将監中央はその年のライバルで、大きな大会は必ずどちらかが優勝していました。夏の東北大会も宮城県同士の決勝戦になり、惜しくも将監中央に破れましたが、そこで長町南のいつもネックになっていたのが、ガードの志村君でした。もう5年生から、高校の教員の親父と小学校の先生の母(ベンチで監督とコーチだった)に、ときどき「黙ってろ」と言って、6年生を指図していました。夏の東北大会決勝で敗れた長町南は、9月からノートを書くようになりました。これで、指導者と選手が一つになり、よりレベルアップすることが出来、志村君のガード力を徹底マークし、激しいDFもしのぎ全国予選の県大会で勝つことが出来ました。
次の年、志村君率いる将監中央は初の全国大会に出場、ベスト16になってます。とても、普通の子が日本一・・・には見えません。しっかりしていて頭が良く、怪物君でしたヨ。
さて、長町南の全国大会は、一次予選を突破し(驚くことに、応援してくれた昭和にはうちから転校して行った小林君がいました。そして、ここと決勝戦をするとは思ってもみませんでした。)、決勝トーナメント1回戦は、優勝候補の豊田(現日本大の大澤君が180cmでいた)でした。ここは、徹底した30秒を使ったプレーでロースコア、ダブルで勝ちました(シュートがほとんど入った。ここでシュートフォーム日本一と言う様になった)。準々決勝は、三重県の藤水、中学生のような重い選手に勝ち、準決勝は栃木県の御幸に
危なげなく勝ち、いよいよ決勝戦(本当のチャンピオンを決める、このころは一日多い)昭和です。実は、私この日は仕事で仙台に帰っていて、コーチの久永君にまかせました。残念ながら、接戦で負けましたけれども、本当の純粋な一つの小学校としては、私は、日本一だと今でも思っています。170cm以上がごろごろ居るのと、シューズを履いて168cmが一番大きい長町南では、・・・・。今キャップテン柿沼君は、アメリカの大学に。副キャップテンの伊藤君は、小学校からの夢を抱き京都大学に行ってます。

 

熊物語その2 「元能代工バスケット部監督の加藤廣志先生との出会い!」

 
1.立町ミニバスとたまに仙台電波高専を教えながら、東北福祉大のバスケットを見学研究にほぼ毎日行った(夕方から夜のトレ多かった)。その訳は、新1年生に能代工から佐藤森王君が、女子のコーチとして来ていたからだ(東北の大学の男女を通じて初めてインカレベスト8になった。卒業後、山形銀行監督、東芝コーチ、日本興行銀行監督)。私は、なにも秋田県の能代工高まで行かなくとも加藤先生のバスケットが勉強できると思い食い入るようにその指導ぶりを見たり、能代工のことをいろいろと聞き、そして森王君には、宮城県の現状や指導者などを教えあった。
2.そのうち、仙台での東北高校バスケットボール大会の際に、森王君と夜旅館に加藤先生を訪ねていくようになり、ナマの加藤先生のお話を聞くことが出来た。イヤー楽しかったですヨ。3.その後ミニバスケットの指導者も、毎回7〜8人連れて行くようになった。宮城のレベルを上げるのには、一人でも多くのバスケットキチガイを作ることが最良だと思ったからだ。つづく

 

熊物語その1 はじめまして

ご隠居!恐縮です。とっかかりからお話しないと、つながらないので、我慢してください。
1.福島商高3年時、東北大会の準決勝で能代工と対戦。シーソーゲームでハーフタイム直前、突如オールコートプレスされ10点のビハインド。結局84ー70で負け。ここで優勝し、能代工は全国大会(国体)初優勝に輝いた。後日、加藤廣志先生に「対戦して、あまり強く感じなかったと言ったところ、それはあなたのチームが強かったのだよ」と言っていただいた。顔から火が出る思いであった。
2.仙台の東北学院大学に入って、4年間バスケットをして得たものは、ダッシュミートとスタミナ配分だった。それでもインカレに2度出場した(4年次は6月でやめた)。
3.卒業し、一般の青空クラブ(男女)をつくり、転勤族、学生、初心者、バスケを途中でやめた人などで楽しく試合をした。10年強続いた。
4.仕事はYMCAで、そこで初めてバスケットボールを考案した人がYMCA職員のネイ・スミスであることを知った。
5.このころ宮城のレベルは低く、何とかならないかと思っていたところ、現理事長の今野氏にミニバスを紹介され、始めは少し馬鹿にしていたが、すぐに虜になっていった。
まっさらなキャンパスに描く(教える)ということは、大変なことで、その人の人生を左右することでもありますから、本当に真剣勝負でした。うそ(?)を教えると、一生そのように覚えてプレーします。恐ろしいことです。普及とレベルアップに力を入れた。
立町ミニバス約12年続いて、南光台・鹿野・長町南に移る(長町南13年目に入る)。
指導内容は、大人を教えるのと同じメニューです。子供は難しくとも、すぐ覚えます。
6.立町ミニバス時代に、どうしても仙台電波高専を指導してほしいと要請があり、二足のわらじをはくことになりました。指導内容は、ミニバスと同じで実践的に教え、見る見るうちにうまくなり、2年目から全国大会に出られるようになりました。
その1は、このへんで終わります。ちかじか、その2をカキコします。

 

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