バスケットボールの歴史

創始

18911221日アメリカ・マサチューセッツ州スプリングフィールドにある「国際YMCAトレーニングスクール」のJ.ネイスミス教授が創始した。

体育主事養成学科の科長、L.H.ギューリックが1890年にネイスミス博士に次のような課題とヒントを与えた。

「本校で学んでいる若い“体育主事候補生”の連中が来年の春季種目を(フットボール、ベースボール)再開できるまで心身ともに良いコンデションを維持できる冬季種目をなにか考え出してもらいたいのだ。(雪が積もったグランドでではなく)体育館でやれるものを」

 

他のスポーツを参考

少年時代に過ごしたカナダ・オンタリオ州アルモントでおこなった〔「雄鴨落とし」(Duck on the Rock)〕(小石投げの遊び)→弧を描くように投げ上げる

ラクロス                       →両チームの人数が同じなら人数制限をしない

フットボール                   →得点するためにエンドゾーンへ攻め返す

 

スタート当時の13条のルール

1、ボールはサッカーボールを使用し、片手あるいは両手で、どの方向へパスしてもよい。

2、ボールは片手、あるいは両手でどの方向に叩いてもよい。ただし、こぶしでたたくのは禁止する。

3、プレーヤーはボールを保持したまま走ることはできない。また、ボールをキャッチした地点からパスしなければならない。かなりのスピードで走っている時にボールをキャッチした場合、もし、ストップしようと努力しているならば一、二歩程度は許されることもある。

4、ボールは両手で保持しなければならない。両腕やからだを用いてはならない。

5、どのような方法であれ、相手を小突いたり、捕まえたり、押したり、つまずかせたり、たたいたりすることは許されない。この規則の第1回目の違反は1個のファウルとする。2回違反を犯した場合は次のゴールが成功するまで退場とする。もし、故意に相手を傷つけようとするようなプレーであると見なされた場合は、ゲーム終了後まで退場とする。

6、第1、2、3、4条で述べたことに1回違反を犯すごとに、1個のファウルとする。

7、両チームのどちらかが連続して3個のファウルを犯すと、その相手チームに1ゴールを与える。(「連続」とはその間に相手チームがひとつもファウルをしないという意味である)

8、ボールがスローされるか、あるいは、タップされてバスケット内に入ればゴール成功である。もし、ボールがバスケットの縁に止まったり、ショットした時に相手がバスケットを動かしたりした場合もゴール成功と見なされる。

9、ボールがコート外に出た場合はそののちに最初にボールを保持したプレーヤーなら誰でもスローインできる。そのとき、スローアーは5秒間だけ相手チームから妨害されないでボールを保持することを許される。もし、どちらのチームのボールとなるか判定がつかないときは副審がその位置からコート内にスローインする。スローインの際に5秒間を超えるとボールは相手側に与えられる。また、スローインの際、どちらかのチームがゲームを遅らせようとした場合、副審はそのチームにファウルを宣告する。

10、副審はプレーヤーを審判し、ファウルを記録し、連続3回のファウルがあったときは

    主審にこれを知らせる。主審は第5条によってプレーヤーを失格させる権限を有する。

11、 主審はボールをめぐるプレーを判定し、いつボールがインプレーとなるか、インバウンズとなるか、どちら側のチームにボールが与えられるのかなどを決定する。また、競技時間を計る。さらに、ゴール成功を確認し、その回数を記録する。これらに加えて、他のゲームで主審がいつも担っているような任務も務める。

12、 競技時間は15分ハーフ制とし、5分間のハーフタイムを置く。

ゴール成功の多かったほうが勝者となる。もし、同点の場合は両チームのキャプテンの同意をもとに次のゴールが成功するまでゲームを続ける。

 

     

コートの広さ

11m×14m

ゴールの高さ

体育館に取り付けられる目一杯の高さ(3m05cm

ゴール

桃を入れる籠

人数とポジション

9人対9                               BASKET                             

                                          

Forward      .Wing                Home                R.Wing

                 

Center        L.Center               Center               R.Center

  

Guard        L.Guard              G.Keeper              R.Guard

                                          

                                       

                                        BASKET

 

10秒ルール」の導入(1932)と「得点後のセンタージャンプの廃止」(1937

 

日本へのバスケットボールの伝播

明治41年(1908)スプリングフィールドカレッジを卒業した大森兵蔵によって、我が国に紹介された。

大正3年にアメリカ人、F・Hブラウンが来日し、YMCAを視察してバスケットボールを紹介するとともに組織づくりも行なった。

大正10年には大日本体育協会主催、「第1回全国選手権大会」が開催される。

大正15年には学校体操教授要目に採用され、学校体育の教材として使われるようになり、競技も普及していった。

島根県のバスケットボール誕生

どのような経緯で島根にはいってきたかは定かでない。

大正8年には松江市内の、附属小、母衣小、雑賀小の講堂にゴールが吊り下げられていた。当時附属小の教諭であった園山亀蔵は、東京で開催された講習会に参加してルールや実技を習い、「松江体育同好会」のメンバーの体育教師に伝え、松江市内の小学校の授業として取り上げた。

中等学校では大正13年の第12回全山陰競技選手権大会(限全山陰陸上)の松江中学と米子中学の模範試合から急速に普及していった。

大正14年に松江体育同好会の主催で小学校の大会が開催された。(母衣、雑賀、北堀、内中原、附属の5校)

大正15年には旧制松江高校にも篭球部が誕生し、島根の篭球熱は一挙に高まった。

バスケットボールは男子のスポーツという認識が強く、昭和2年の女子中等学校オリンピック大会から女子の対外試合が始まり、昭和6年にようやく第1回女子篭球選手権大会が開催される。

その後、戦争のため昭和20年の終戦までスポーツ空白時代が続いた。

昭和21年、目次国雄を初代理事長として島根バスケットボール連盟(現協会)が設立発足する。

昭和39年の東京オリンピックを契機に底辺の拡大を目指し、昭和41年には日本協会主催で「少年少女バスケットボール教室」が東京で開催される。

島根も当時の理事長、門脇秀雄の発案で「小学校から一貫した育成を」と全国にさきがけて、松江少年少女バスケットボール教室がスタート。

松江の後を追い、三刀屋、木次、加賀、出雲、益田、浜田など各地に教室が開校。

昭和50年からは、県内の教室の交歓大会が開催されるようになった。

昭和60年には、県ミニ・バスケットボール連盟が発足する。